廃兵院武器庫(仮置き) 

 

Valmy Battle 1792

 

Valmy Battle 1792

 

 上図 ↑: ヴァルミーの戦い 1792 図の左下部分に医療部隊の救護所があります(拡大)。(Wikipedia の Bataille de Valmy  より。)
 大きな図(コチラ)で救護の様子を確認して下さい。
 Horace Vernet (1789-1863) が 1826 年に描いたものを Jean-Baptiste Mauzaisse (1784-1844) が 1835 年に拡大模写したものだそうです。

 下図↓ : サン=ジャン=ダクレ攻囲戦 1799 (Siège de Saint-Jean-d'Acre)の行われたアクレ(アクル、アッコ、アッカ、アッコン)
 左は Wikipedia の Acre (Israël) 2012 より。右は Google Map 2014.12 より

 

 

 概要

 フランス革命により 『人権』 という概念が軍隊の世界に入ってきました。戦場で放置されてきた傷病兵の人権を守るため軍隊の中に衛生隊が誕生しました。ルソーの教えどおりに、フランス軍の衛生隊は敵味方の差別なく傷病者の治療を行いました。おそらく、唯一の例外がサン=ジャン=ダクレ攻囲戦でした。

 サン=ジャン=ダクレ攻囲戦は過酷であり、フランス軍は大きな人的損失を受けます。そのため、人権の保護よりも戦術的要求が優先されました。このときに行われたと考えられる差別的医療を triage (トリアージュ、選別)と言います。triage は人権問題です。逆に言うと、明らかに人権問題でないものは triage ではありません。軽傷者が多いときに重傷者の治療を優先するといったことは、おそらく何千年以上の歴史をもつ行為であり、人権を冒す triage とは明確に区別する必要があります。民主主義が衰退した王政復古期のフランス軍の中で、triage は復活し、ヨーロッパ諸国軍に広まっていったと考えられます。

 triage は、民主主義の思想を根底から蝕んでいきます。 明治維新という一種の民主主義革命で誕生した明治期の日本陸軍は、平等な社会を実現したいという日本国民の要求が強かったため、ヨーロッパ諸国軍の triage 導入を拒絶しました。 しかし、大正期から triage を開始します。 その結果何が起こったでしょうか。 陸軍軍医の医療倫理は崩壊し、細菌兵器を開発したり、人間を使って生体実験をしたりする医学部隊が誕生することになりました。

 1799年のサン=ジャン=ダクレ攻囲戦 から約150年間、triage は軍隊の中で密かに続けられた人権侵害(→ 1864年以降は赤十字条約違反)でした。1950年に始まった朝鮮戦争以降、triage はアメリカ軍によって一般の市民社会に広められました。 triage を容認するようになった社会の中では、個人の人権を尊重する思想が衰退し、全体主義的な思想が支配的になります。

 今、日本社会でも triage を容認する人々が増え続けています。 この流れを変えないと、日本はかつてと同じ失敗を繰り返すことになるでしょう。 これは日本に限った特殊な話ではありません。 フランスもアメリカも同じような歴史的変化を示しています。 民主主義革命が起こる → 民主主義が衰える → triage を容認する → triage が民主主義の衰退を加速する → 医療倫理が崩壊する、まったく同じパターンが仏・日・米で見られます。軍隊の中で起こった変化が、今度は国民全体のレベルで起こる危険性があります。

 このサイトでは、 triage の歴史を紹介します。たった二百年の短い歴史です。しかし、とても面白い歴史です。

 

 ・・・・・というホームページでしたが、ソネットのサービス停止により消えていました。

 全体を復元すると容量オーバーとなるので、一部だけここに仮置きしておきます。

 

 ◆ 説明資料1:▶ ▶ ▶(.pdf)

   MS Word はこちら:▶ ▶ ▶(.doc)

 

 以下は、説明資料1をベースにして作成

 

 ◆ 説明資料2:「戦場医療のルーツをたどる 衛生隊誕生」、歴史群像No.103, pp78-86(2010年10月号、学研パブリッシング)

 

 ◆ 説明資料3:「人道主義から戦術優先への退行 日本陸軍の戦場医療」、歴史群像No.104, pp86-94(2010年12月号、学研パブリッシング)

 

 ◆ 説明資料4:▶ ▶ ▶ 「軍事史学 第49巻 第3号 特集 軍事と医療Ⅰ」(研究ノート)軍事と医療のジレンマ ─トリアージの歴史について─(平成25年2013年12月1日)

 


 

 平成25年2013年作成の自己紹介(そのママ貼っておきます):

 

 インターネット検索などで、たまたまこのページを訪問して下さった方へ (作者プロフィール等)

 初めまして

 私は尾立貴志という者です。簡単に経歴を述べますと、1985(昭和60)年に防衛医科大学校を卒業して陸上自衛隊に入隊し、27年後の2012(平成24)年7月末に退職しました。訳あって、インターネット上の誰でもアクセスできる場所に資料を置く必要が生じ、このホームページを作成しました。このホームページに置かれている資料の信頼性を保証するためにも、事の経緯(何者が、何故に、何を目的とした情報提供のホームページを作成しているのか)を明示させていただきます。

 最初に、用語についての注意点を述べておきます。私が triage (トリアージュ、トリアージ)の歴史を研究していたころ、同じテーマの研究者と接触することはまったくありませんでした(他に研究者はいなかったようです)。また過去にもトリアージの歴史的研究を行った者は、日本にはいなかったようです。そのため、トリアージの歴史を正確に記述するための用語も無かったので、トリアージの変化を整理する過程で見通しをよくするために新しい用語(呼び方)を自分で作って使用しています。用語の正確な定義は、各資料の中で行っています。ここでは、用語の意味を知るための簡単なヒントを付すに留めています。

 私の主な勤務歴は表の通りですが、1987~2004は、軍隊や自衛隊の歴史について何も知らず、NATO式トリアージ(NATO式第1トリアージ=災害トリアージのルーツ)しか知らず、トリアージを単なる技術の問題として理解していた 愚か者の時代 であったと言えます。2004~2006は、イラク派遣を契機として、絵に描いた餅にすぎず軍事的には合理的でない(つまり実用的でない)NATO式トリアージを捨て、替わりにナポレオン式トリアージ(=本物の軍隊のトリアージ)をひたすら追求した 軍人の時代 でした。このとき、トリアージの倫理的問題にようやく気付き始めました。トリアージがジュネーヴ条約違反であることを指摘されたあとの 2006 ~ 2009 頃までは、トリアージの歴史を徹底的に追求し解明していった 学者の時代 です。2009 以降は、(陸上自衛隊の利益を守ることを主とする)内輪向けの非積極的布教活動を開始し、2012 には数学の研究のため一時活動を離れますが(本当は布教活動から一切手を退いたつもりだったのですが、若い研究者が育っていないために引き戻されて)、2013 は、積極的な布教活動をする 宣教師の時代 が始まったばかりだと考えています。

 軍人の時代には、相当悪いこと(組織の利益を最優先する全体主義的な考え方=医の倫理に反する)を教えたと反省しています。衛生学校では、入校学生(後輩である若い医官たち)に、もしトリアージをやらざるを得なかった時は、トリアージをしたという証拠は絶対に残すな、と教えていました。当時の私は、民主主義やジュネーヴ条約についての理解が不十分なだけでなく、歴史的な知識にも乏しく、強い正義感も持っていなかったので、トリアージは絶対にするな、と自信を持って教えることができなかったのです。

 

1985 S60 防衛医大卒業
1987 S62 第2師団第2衛生隊、旭川医大研究生
1989 H1 防衛医大病院救急部
1991 H3 自衛隊阪神病院、第1次カンボディア派遣施設大隊
1994 H6 防衛医大病院救急部
1995 H7 陸上自衛隊衛生学校戦傷病救急医学教室教官
1996 H8 防衛医学研究センター
2002 H14 第2師団司令部医務官、第1次イラク派遣復興支援群
2004 H16 陸上自衛隊衛生学校戦傷病救急医学教室長
2005 H17.12 トリアージがジュネーヴ条約違反であることを知らされる
2007 H19 陸上自衛隊幹部学校(航空自衛隊目黒基地医務室)
2012 H24 陸上自衛隊朝霞駐屯地業務隊衛生科(医務室)

 

 私が初めてトリアージの教育を受けたのは、1987(昭和62)年の夏、世田谷区池尻の三宿駐屯地にある衛生学校で受けた初級幹部課程(医科・歯科)の教育においてでした。その内容について説明する前に、陸上自衛隊医官の世代について説明しておきます。

 陸上自衛隊の医官は大きく3つの世代に分けて考えることができます。

 第1世代は、元軍医です。歩兵(=自衛隊では普通科と呼ぶ)など他の職種では旧軍出身者の自衛隊入隊は厳しい制約を受けていましたが、医官はもともと確保が難しかったため(また陸軍大学出身者でもないため)、そのような制約が緩く、元軍医が多く入隊しました。陸軍軍医団の主流派と呼んでもよい人たちが衛生学校や陸幕衛生部の要職を占め、陸上自衛隊衛生科を創っていったと考えて良いでしょう。そのため、衛生科だけは、陸上自衛隊の他の職種と違って、旧軍のものの考え方、つまり組織文化の伝統を色濃く継承しています。間違えの無いように注意しておきますが、継承したのは明治陸軍の組織文化ではありません。昭和陸軍の、しかも玉砕期の全体主義思想を継承したのです。

 第1世代の特徴は、トリアージの本質的意味、つまり戦術的価値や、それが倫理に反し、赤十字条約に違反していることをよく理解していたことです。日本陸軍のトリアージ技術は、満州事変のころに完成し、世界最高水準の戦術的合理性をもったトリアージを理論的には実行できる能力を持っていました。トリアージの非倫理性についてもしっかりと認識していたので、実際には、その非倫理性ゆえに反発してトリアージをしなかった軍医が少なくなかったようなので、「理論的には実行できる」と書きました。

 陸自医官の第2世代は、戦後に医師となって陸上自衛隊に入隊し、第1世代(元軍医)の教育を直接受けた医官です。第1世代は、トリアージの考え方や技術を後輩に教え伝えることを最重視しました。しかし、トリアージが倫理に反することを積極的には教えないようにして(つまり、事実上は隠して)トリアージの教育をしたために、かえって教育が形式的で深みの無いものになり、トリアージの本質を教え伝えることに失敗しました。

 なぜ失敗したとわかるのか。防衛医科大学校卒業医官の十数期あたりまでが陸自医官の第3世代ですが(つまり、2013年現在の陸自ではもう第4世代が育っています)、第3世代は第2世代からトリアージの教育を受けました。そのトリアージは、理論的にも技術的にも極めて低レベルの内容なので、第2世代になってトリアージの本質は見失われたのだとわかるのです。第2世代の時代に、陸自衛生のトリアージは著しく退化し、ヴェトナム戦争時代の米軍並み(つまり災害医療と同レベル)の低レベルなトリアージしかできなくなりました。このような退化現象は、陸上自衛隊衛生科の教範を並べ、トリアージの記述を比較すればすぐに解ることです。

 私は防衛医大6期であり、第3世代の医官です。第2世代から、恐ろしく低レベルのトリアージ教育(=NATO式第1トリアージ)を受けた訳ですが、もちろん当時はトリアージの歴史など知りませんから、自分たちの受けている教育のレベルが低いなどと感じることはありませんでした。もちろん、倫理的な問題は一切教わりませんでした。トリアージは単なる技術上の課題であり、適当な訓練によって誰でも習得することのできる簡単な技能に過ぎませんでした。しかもNATOから入ってきた技術であるかのように教わりましたから、旧日本軍はトリアージのような技術は持っていなかったと勝手に思い込んでいました。

 私は、臨床医学は防衛医大病院で救急医学を専攻しました。防衛医大の救急部は、阪大の特殊救急部の系列であり、主な治療対象は重症の外傷、中毒、感染症、心肺蘇生などです。陸自では衛生隊や病院の外科医官、衛生学校の教官として勤務し、また第1次カンボディア派遣施設大隊や、第1次イラク復興支援群などに参加しました。

 さて、衛生科隊員ばかりの職場で働いているときは気付かなかったのですが、2002(平成14)年から旭川にある第2師団司令部に医務官として勤務したとき、自分の考え方が防衛大学校出身の幹部と比べて全体主義的であることに初めて気づきました。それでもまだ当時は、自分が旧軍軍医の伝統的な考え方を継承しているためだとは気づきませんでした。何かの問題を解決しようとするとき、防大出身者は、隊員の自発的なやる気を引き出すような方法を工夫するのに対し、私は「やれ」と命じればそれでいいではないかと、考えていました。民主主義に基盤を置く陸上自衛隊の歴史というものを全く理解していませんでした。

 2003年12月、イラク派遣準備訓練の中で、同時多発攻撃による大量傷者対処訓練を実施しました。私はトリアージ・オフィサーを担当しました。イラク派遣候補の衛生科隊員たちは、難なく大量の傷者を上手に治療の流れに乗せて収容することに成功しました。

 しかし私は、続いて発生するかもしれない次の患者受け入れに備えて、多数の天幕に収容された患者の情報収集に走り回り、全体を掌握するのに1時間以上も要したことを問題視しました。全体が掌握できていないその1時間の間に次の患者が運び込まれると、優先判断ができなくなり、現場が大混乱に陥る危険性があると考えたからです。おそらくイラク派遣で、陸自衛生はトリアージを初めて真剣に見直ししたと言えるでしょう。この訓練の1年後には、NATO式トリアージが捨てられることになります。

 訓練終了後、イラク派遣復興支援群長候補(防大24期)に、その問題点を説明したときのことです。群長候補がトリアージとは何かと私に説明を求めました。まさか衛生科だけがトリアージをしているとは知らなかった私は、NATO式第1トリアージの説明をしました。群長候補が、その内容を理解するや否や、トリアージに反対したので私は大いに驚きました。群長候補はトリアージに反対し、ただ一言「全員を救え」と述べました。

 私が、防大出身者によるトリアージ反対の意味を理解できるようになったのは、約4年後、民主主義やそれに基づく新しい武力集団を目指した陸上自衛隊創隊期の努力を知ってからでした。

 第2師団の後、衛生学校教育部の戦傷病救急医学教室長となりました。この教室は陸上自衛隊の衛生科部隊が実施する治療についての教育を担任する教室でした。そこで、私はイラク派遣で感じた当時のトリアージ(=NATO式第1トリアージ)を実戦でも役立つものに改良することに取り組みました。

 そして私の考え方はすぐに、ナポレオン式トリアージに変化していきました。同時に、トリアージが持つ倫理的問題も意識するようになりました。最初の認識は、トリアージは(NATO式だろうと、ナポレオン式だろうと)、ジュネーヴ条約によって制約を受けているようだという程度のものでした。違反という認識はありませんでした。

 富士山麓に、陸上自衛隊の富士訓練センターという実戦的な模擬戦闘訓練のできる施設があります。当時、イラク派遣を控えた部隊が訓練を受けに来ていました。私も数日間ですが、訓練指導のために滞在したことがあります。そのとき、九州から来た部隊でしたが、戦闘時にトリアージをしないで手当たり次第に負傷者を救助していました。そこで私は、現場の即戦力回復を最優先とする、今でいうナポレオン式トリアージを教育し、これができるようになれば皆さんは旧日本陸軍に匹敵する精強な部隊になれるでしょうと、隊員を励ましました。

 イラク派遣は3カ月交替であり、新しく派遣される部隊は、それ以前の派遣部隊からしっかりと情報収集し、教訓事項を得て訓練に反映させていましたから、ナポレオン式トリアージの考え方は、あっという間に普通科(=歩兵)に広まりました。

 実はアメリカ軍も、2001.09.11の同時多発テロの頃から、NATO式トリアージを捨て、ナポレオン式トリアージへの移行が始まっていたようです。米軍某部隊の教育資料を見せてもらったことがありますが、敵に対する火力優勢を確保するまでは、衛生兵の火力加担まで求める内容でした。ジュネーヴ条約などクソ喰らえって感じで、かつて日本の軍人をB・C級戦犯で裁いたのは、いったい何だったのかという変わりようです。米軍や英軍がイラクなどで捕虜等に酷い仕打ちを加えたことは、ここで紹介する必要はないでしょう。

 私は、陸上自衛隊衛生の教範を作っていた衛生学校研究部の研究員(防大37期)に、ナポレオン式トリアージの考え方を新しい教範に組み入れるべきだと求めました。平成17年12月頃のことです。そのとき彼は、軽症者優先治療はジュネーヴ条約違反だから教範には書けないと主張したのでした。

 私はショックを受けました。トリアージがジュネーヴ条約違反であるなどと聞いたことがないからです。それに、軽症優先が条約違反で、重症優先が条約違反でないというのは論理的におかしいとも感じました。

 その論理的問題はすぐに解決しました。彼は、防大を卒業して陸上自衛隊衛生科に進み、初めて衛生隊のトリアージ訓練(重症優先のNATO式第1トリアージ)を見たとき、これは倫理的におかしいと感じたそうです。しかし、衛生隊が隠すことも無く堂々と訓練をしているのを見ているうちに、自分はまだ若い幹部だから理屈を知らないだけで、きっとこのようなトリアージを正しいとする論理があるのだろう、と自分を納得させたそうです。そして、軽症優先はジュネーヴ条約違反だが、重症優先は条約に違反しないという考え方に慣れていったそうです。

 そうです、論理的には、軽症優先が条約違反なら、重症優先も条約違反です。トリアージの重症優先は、大昔から行われてきた人道的な重症優先とは区別しなければなりません。大量の重症患者を想定しているからです。そのような大量の重症患者を優先治療すると、本来であれば生命も助かるような軽症患者でも手遅れとなって生命を失う可能性がありますから、大量に傷病者が発生するときは、どのような優先治療もジュネーヴ条約に違反することになるのです。

 年が明けた平成18年から、私はトリアージの教育内容を技術重視から倫理重視へ切り替え、またジュネーヴ条約とトリアージとの関係を旧軍の資料を中心に調べ始めました。

 

 ・・・・・・まだ、工事中です。

 

 私は、2013(平成25)年6月1日土曜日、 陸上自衛隊衛生学校の全面的な協力のもと三宿駐屯地で開催された平成25年度(第47回) 軍事史学会年次大会に参加しました。私の発表テーマは 「軍事と医療、その倫理的葛藤の歴史」 です。その発表において、退職後に著作権フリーで公開した研究ノート「トリアージはジュネーヴ条約違反である(The Geneva Convention prohibits any kind of triage.)」を参考文献(資料:20130601.1の中の資料3)として紹介した関係上、ファイルをインターネット上に置かざるを得なくなり、取り急ぎのホームページを作りました。それが、この 「廃兵院武器庫」 です。

 誤解の無いように述べておきますが、「廃兵院武器庫」は、トリアージそのものを批判しているサイトではありません。人殺しをする軍隊が必要悪と呼ばれるように、トリアージも必要悪です。特に、今まさに敵と交戦中の部隊にとって差別的治療は切実な戦術的要求となります。しかし、トリアージはジュネーヴ条約違反です。ジュネーヴ条約を守ることは軍隊全体(つまり国として)の戦略的要求ですから、現場の指揮官はその狭間で悩み苦しむことになります。そうしたことを承知の上で、第2次世界大戦以前の軍隊の一部が(隠れて)行ってきた必要悪がトリアージです。それを今、日本の民間までがやろうとしています。国全体が軍隊に近い社会意識を持つように変化しています。「廃兵院武器庫」は相対正義論の立場に立っていますから、そのような社会現象を批判している訳でもありません。そのように社会を変化させたいというのが日本国民の望むものであるのならば、どうぞお好きにという傍観者的立場をとっています。そのような社会的変化の先に何が待っているかは、歴史を学べば知ることができます。731部隊は、旧日本陸軍衛生科のエリート部隊です。彼らは衛生科の主流派です。彼らの組織文化の伝統を私は継承しています。

 トリアージは重たい意味を持つ言葉ですが、現在の日本で起こっていることは、・・・・・・・・

 

 その歴史を学ぶために必要な史料や解釈を紹介し、未来の予測に役立てていただきたいという思いで作られたのが「廃兵院武器庫」です。

 ・・・・・・まだ、工事中です。

 本ページ最終更新:2013.06.23 

 


 

 手を加えたいのですが、「2013.06.23 のまま」としておきます(令和6年2024.11.11)。